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Posted by チェスト at

2016年04月19日

適当?最適?

以前、前世が高田順次氏という設定にしていました。
「適当」という言葉が某氏にはよく使われますが、適当とは、「適していて当たっている」と書くので、おそらく本来はネガティブな意味ではないのではないかと考えています。
同様に誤った(?)使い方となった言葉で「微妙」というのがあります。本来はたしか仏教用語で「細かいところまで行き届いた絶妙な状態」ということだったかと記憶しています。もっとも、言葉は生き物らしいので意味が変わってくるのはしたかないことなのかもしれません。

最適という言葉もありますが、全体の最適のためには部分の最適が後回しになることも多いですね。もっとも、全体をどこに設定するかという問題もあります。会社全体なのか、一部門なのか、一個人なのか…国とか地球という全体設定も有り得ます。

人類が生き残る必要があるのかどうかは全くのところ疑問です。基本的に滅びる時は滅びるだけの原因があるので、その時はその時と思っています。いわゆる適者生存でしょうか。

何かの答えを出す前には、問題の設定というか、前提条件と目的、そして優先順位が必要かと考えています。
それさえ決定すればほとんどの問題は数学的に、もしくは論理的に答えが出るものと思います。
人間が悩むのは、目的と優先順位が定まっていない時ではないでしょうか?

それぞれ価値観(価値感?)が違えば目的も優先順位も異なりますので、闘争が発生するのかと思われます。

私も自分の目的は具体的ではないですが、まあ幸せになりたいのでしょうか。でも、自分がどういう状態が幸せなのかはよくわかりません。でも毎日楽しければいいのではないかと思います。嫌なことは翌日に持ち越さず忘れることが大事なのかも。

おててのシワとシワを合わせて…シワヨセ…南無三!切羽!一休さん!一休み一休み…  

Posted by 木原 昌彦 at 20:49Comments(0)

2016年04月19日

成功体験・失敗談の効用?

最近は悩むことが少なくなりました…でも若い頃は(今思えば)瑣末なことで悩んでいたような気がします。人生は選択の連続なので、どのようなプロセスを経たとしても、結果として何かを選ぶしかありません。

ところで、ハタからどう見えるか(正直そんなことどうでもいいですが)は別として、自分としてはこれまで失敗の連続でした。ごくたまに思い通りになったこともありますが、努力したというより、好きなことをやっていただけなので、まあ要するにラッキーだったのだと思われます。

最近、若い人に、悩み事を相談された時思うことは「うーん…別にたいした悩みではないなあ。死ぬ訳ではないし、そんなことどうでもいいような気がする。でも俺も若い頃、似たようなことで悩んでたなあ。悩まなくなったのは、単なる慣れだろうか…心の傷(小心者で傷心者!)にかさぶたついて保護しているのだろうか。これが、鈍感力、老人力なのか…うーん悩むなあ」という感じです。

結果として伝えるのは、自分の失敗談です。世の中は How to Success(成功本?性交本は? How to S…) の本がやたらとあり、まあ参考になりそうなものもありますが、成功者の本を読み、同じことをしたからといって成功する確率はそれほど高くないかと想像します。また、環境が変化しているのに過去の成功体験に固執すると失敗したりもします。もっとも、厳密な統計をとったわけでもないので、このブログのタイトルどおり気のせいです。逆に失敗をした場合は、単に不可抗力的なアンラッキーである場合もありますが、多くのケースでは、それなりに原因があるような気もします。成功者の真似をして成功する確率と失敗者の真似をして失敗する確率…どちらが高いと思われるでしょうか?
なので、「こういう状況でこういう判断をし、こう行動したら、こんな失敗したんだよ。だから君は俺と同じ失敗をする必要はないんだよ」という方向に持っていきます。投資では、勝つことは素晴らしいことかもしれませんが、継続する(つまり生き続ける)ためには、負けないことのほうが重要かと考えています。株式投資の格言(ほとんどは無内容なインチキな気がしますが)に「当たり屋につけ、曲がり屋に向かえ」というものがあります。しかし、うくいった投資手法をよってたかってみんなで真似をするとその有効性が薄れるケースもままあります。

また、フランスの哲学者サルトルの実存主義は、生まれたてきたこと自体にたいした理由はないし、生きていることにもたいして意味はないものの、まあそれでも生まれてきてしまって、生きているのでとりあえず何かしようという意味合いのようで、チャレンジしてみるというのも気が楽かもしれません。昔所属した会社のインテリ後輩が「まあ所詮、人生なんて暇つぶしですよ」と言っていたことも思い出しました。

最後に逃げ口上ですが、若い人!悩みがあるなら悩んでください。簡単に正解(そんなものは無いような気もしますが)を教えてもらえるとは思わず…さんざん悩んだ結果…何かが残るような気がします…

またとりとめのないことを書いてしまった…(石川五右衛門風に)  

Posted by 木原 昌彦 at 19:39Comments(0)

2016年04月19日

ゆとりかスパルタか…

スパルタ


ゆとり教育というのが以前ありましたが、どうも結果は思わしくなかったようです。たしか個性を伸ばすというのもテーマにあったような気がします。

導入当時既に社会人でした。個性を伸ばすっていったい何なのかよくわかりませんが、同僚とそのことを話題にした時、以下のような意見が出ました。

・ひとを大雑把に分けると、言われなくてもする人 言われたらする人 言われてもしない人の3種類で、ゆとりの結果、言われたらするひとが言われないためにしなくなる。

・学校制度や教育方針、受験勉強などで潰れてしまう程度の個性(?)は、所詮中途半端なので、早いうちに潰してあげたほうが、本人や社会全体のためには良い。

・詰め込み教育を批判するひともいるものの、一定以上はインプットしていないと創造的なアイデアなどは出てこない。

当時も好意的に受け止める人はあまり私の周りにはいませんでした。

私は、家庭教師や塾の講師のアルバイトをしたことしかなく、本職の教員でもなければ、子供もいないので取り立てて教育方針などに関心を持ったことはあまりありません。そして厳密な検証をしたこともないので、単なる気のせいか、思いつきです。

ずいぶん前ですが、日本の弁護士試験の制度が変更(法科大学院ができる前だったかな?)され、たしか受験回数に制限が出来たという記憶があります。その時、働きながら何度も受験して合格を目指す社会経験豊かなひとを排除するのかという批判もでたようですが、社会経験が豊かなのではなくて、単に受験経験が豊かなだけという反論もありあした。

学生時代にたまたま受けた一般教養で、フランスの教育制度というのがテーマにありました。フランスは徹底したエリート養成機関である、グラン・ゼコールという専門学校(別名ENAだったかな?)のようなものがあり、ソルボンヌなどのような伝統のある大学よりも難関とのことです。もっとも、医学とか哲学などは対象外で、日本でいうと高専のようなもののようです。政治家や大企業の経営者などはグラン・セコール出身者が多いようです。ところで、エリートという言葉はフランス語ですが、もともとはあまりいい意味でもなかったようです。フランスなどの欧州は、階級社会的なところがあり、エスタブリッシュメント(にわかセレブなどとは異なる)から見ると、有能かもしれないが、どこの馬の骨だか分からないといった差別用語だったようです。まあ、学業と人格形成や品格というのは別のものなのかもしれません。

はい!なんでこんなこと書いているのかよくわかりませんが、ブログのタイトルどおり、暇人の気のせいなので…ちなみに大雑把に分けたとき…私は気が向いたらするひと…論外かな?そういえば、記事のタイトルに挙げた、スパルタのことを書くの忘れてましたが、まあいいか…ゆとりの後は悟りらしいですね…仏陀が再来?
  

Posted by 木原 昌彦 at 05:59Comments(0)教育