2016年04月14日
パソコンフェチではないですよ。

初めてパソコンというものを触ったのは小学生の高学年でした。友人のお父さんがコンピュータ関連の仕事をされていたようで、ご自宅にたしかSHARPのMZシリーズ(CPUはザイログ社のZ80?)が置いてありました。グリーンディスプレイで、記憶媒体はカセットテープでした。友人と一緒にガンダムのゲームに熱中した記憶があります。それでパソコンが欲しくてたまらなかったのですが、当時は両親ともゲームするだけの機械に何十万円も払うつもりはないという考えのようでした。
中学の時にピアノを習っていて、高校生になったら帰宅部になってピアノの練習をしようと思っていましたが、当時は部活に入らない生徒は、抽選で強制的に応援団に入団させられるという制度があったため、なんとか楽な部活を探して、活動が週一回の物理部に入りました。2年生はおらず、3年生もすぐに受験で引退され、部員は私一人だっため、1年生でいきなり部長になりました。部にはNECのPC-8801markⅡSRというパソコンが使える環境がありました。これは、一世を風靡したYAMAHAのDX-7というシンセサイザーと同じFM音源(でも廉価版)を搭載しており、BASICのプログラムで音楽が鳴らせるというものでした。パソコンに詳しく音楽好きなクラスメートがいたので、部に入ってもらいいろいろ教えてもらいました。結局、物理部とは名ばかりで実際は、クラスメート5名くらいでバンド活動を始めました。でも音は波動であり、物理学の対象であるというのが言い訳でした。
大学生になって初めて自分のパソコンを買いました。NECの白黒のノートパソコンで当時25万円くらいだったかと記憶しています。大学の教養課程でパソコンの授業を履修し、ワープロの一太郎や表計算のLotus1-2-3などを覚えたり、NIfty-Serveというパソコン通信をしたり、当時アニメで人気化していた銀河英雄伝説を題材にした戦略シュミレーションなどをやってましたが、周りにはパソコン使う友人はあまりおらず、奇異な目で見られました。就職活動の時期になって急にパソコン教えてくれと手のひら返したような知人(友人ではなく)も多かったですが、基本的に無視しました。ところで、その後、WIndowsが登場してMicrosoftのOFFICEが台頭したため、せっかく覚えたLotusのマクロなどは無駄になって残念でした。ちなみにWindowシステムはMacが元祖ではなく、実はゼロックスのパロアルト研究所で研究員のために作られたシステムが起源らしいです。ビル・ゲイツや亡きジョブスなどが見学にきたそうで、新しもの好きなAppleはすぐに商品化しましたが、MicrosoftはビジネスのためにMS-DOSの互換性を優先し、10年後くらいに商品化した模様です。また、internetは軍事用の分散コンピューティングの走りであったArpanetを民間向けに転用したものです。
その後30歳くらいまでは、いわゆる3DのPCゲーマーでした。自作PCで半年ごとにビデオカードを新調していたので結構お金がかかりました。特に戦闘のリアルタイムシュミレーションなどにはまっており、OperationFlashPointというタイトルのゲームでNATOの小隊長やソ連の将校、レジスタンスのリーダーなどを深夜までやっていましたが、ある時、無理なオーバークロックでCPUを焼いてしまい、パソコン熱は一挙に冷めました。
冗長な文章を書いてしまいましたが、ある時パソコン音痴の上司とこんな会話をしました。
上司 「おい!俺のパソコンがまたおかしくなったぞ!なんとかしてくれ」
私 「またですか?まあパソコンはそういうものですよ。それでどんな症状ですか?」
上司 「何を捺しても掛け算マーク(✽:アスタリスク)が出てくるんだよ。」
私 「それは変ですね。でも、もしかしてパスワード打ってるのではないですよね。」
上司 「そうだよ!」
私 「…」
この上司は企業調査部長という肩書きでいわゆるアナリスト部門の責任者でした。こんなパソコン音痴のかたでも感心させられたことがあります。真面目にパソコンを勉強しようと自宅用に初めてパソコンを買われたのですが、こんなことを言われました。「やっとパソコン買ったぞ!でも、こんな俺でもパソコンを買ったということは、インターネット相場はそろそろ終わるんじゃないかな?」
そのとおりになりました。
Posted by 木原 昌彦 at
23:42
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2016年04月14日
自分のことは棚に上げて?

最近は、比較的猫をかぶって大人しくしていますが、以前は言いたいこと言い放題でした。
たまに「何様のつもりだ!」とか「生意気な!」、「偉そうに!」、「自分のことは棚に上げて!」といった、論理的にはまったく機能していない反論(正しくは反応?)を受けたことがあります。こういう発言するかたは、おそらく思考停止しているものと認識しています。
まあ、最後の「自分のことは棚に上げて」と言うのは、世間一般では比較的通用しているような気もしますが、よく考えるとその背景にあるのは、「何を言っているのかよりも誰が言っているのかということのほうが重要」ということです。
内容が事実であったり、真実であれば、誰が言おうと関係ないのではと個人的には思っていますが、都合の悪い話をする人を黙らせるための常套句なのかなとも思います。たまにこれを言われたときは、ちょっと茶化して「とんでもない!自分のことを棚に上げているだけではなくて、棚の戸も閉めて南京錠をかけていますよ」と答えることもあります。そうすると相手は逆上して頭に血が上り、冷静な思考ができす、よりいっそうの暴言を吐いたりしますので、そこにカウンターを食らわせるということが可能ではあります。言ったことはないですが、「はい!上げてますよ。神棚に」という返しもあるかもしれません(効果はあるかな?)。
私はキリスト教(後に異端視された原始キリスト教は除く)は基本的にインチキだとは思っているのですが、高校生の時に少しだけ研究したことがありました。聖書によると、ある罪を犯した女性が石を投げられて殺されそうになった場面に遭遇したイエスが「この中で何の罪も犯していない物だけが石を投げる権利があるのでは?」というような内容を言ったというエピソードがありました。そう!ほとんどの人は何か言おうとすると結果的に「自分のことを棚にあげている」ことになりかねません。
本来は誰が言おうと、「(論理的に?)正しいことは正しく、間違っていることは間違っている」のですが、どうも世間ではそうでもないようです。
大学生の時に、とある事件のニュースを見ました。日本の女子大生グループが、イタリア旅行をして現地の日本語が流暢なイタリア人に言葉巧みに誘拐、拉致監禁され、レイプされたという事件でした。犯人のイタリア人の名前はたしか「カバキ」というのだったと思います。女子大生グループのうちの一人だけがレイプを免れたのですが、彼が逮捕された時に「なぜ、あの娘だけはレイプしなかったのか?」との質問に対し、不遜(?)にも「俺だって好みはある」と答えたそうです。この答えにはお怒りの意見が多数あったような気がしますが、私は彼の発言自体は別に間違っていないのではと思いました。怒りの対象の論点がちょっとずれているような気がしました。ちなみに傷心(傷身?)の女子大学生グループは解放されたあとに、すぐには帰国せず、旅行の続きをしたと聞いています。なんとたくましい!センチメンタル・ジャーニー?それは感傷ですね。
私は基本的な考え方として、権威主義ではありません。なぜなら権威あるかたが必ずしも正しいとは限らず、10年もすれば間違っていたことに周囲が気づくケースもままあるからです。健全なる批判精神もしくは懐疑主義は必要かと愚考します。
Posted by 木原 昌彦 at
19:17
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