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2016年04月14日

自分のことは棚に上げて?

神棚


最近は、比較的猫をかぶって大人しくしていますが、以前は言いたいこと言い放題でした。
たまに「何様のつもりだ!」とか「生意気な!」、「偉そうに!」、「自分のことは棚に上げて!」といった、論理的にはまったく機能していない反論(正しくは反応?)を受けたことがあります。こういう発言するかたは、おそらく思考停止しているものと認識しています。

まあ、最後の「自分のことは棚に上げて」と言うのは、世間一般では比較的通用しているような気もしますが、よく考えるとその背景にあるのは、「何を言っているのかよりも誰が言っているのかということのほうが重要」ということです。

内容が事実であったり、真実であれば、誰が言おうと関係ないのではと個人的には思っていますが、都合の悪い話をする人を黙らせるための常套句なのかなとも思います。たまにこれを言われたときは、ちょっと茶化して「とんでもない!自分のことを棚に上げているだけではなくて、棚の戸も閉めて南京錠をかけていますよ」と答えることもあります。そうすると相手は逆上して頭に血が上り、冷静な思考ができす、よりいっそうの暴言を吐いたりしますので、そこにカウンターを食らわせるということが可能ではあります。言ったことはないですが、「はい!上げてますよ。神棚に」という返しもあるかもしれません(効果はあるかな?)。

私はキリスト教(後に異端視された原始キリスト教は除く)は基本的にインチキだとは思っているのですが、高校生の時に少しだけ研究したことがありました。聖書によると、ある罪を犯した女性が石を投げられて殺されそうになった場面に遭遇したイエスが「この中で何の罪も犯していない物だけが石を投げる権利があるのでは?」というような内容を言ったというエピソードがありました。そう!ほとんどの人は何か言おうとすると結果的に「自分のことを棚にあげている」ことになりかねません。

本来は誰が言おうと、「(論理的に?)正しいことは正しく、間違っていることは間違っている」のですが、どうも世間ではそうでもないようです。

大学生の時に、とある事件のニュースを見ました。日本の女子大生グループが、イタリア旅行をして現地の日本語が流暢なイタリア人に言葉巧みに誘拐、拉致監禁され、レイプされたという事件でした。犯人のイタリア人の名前はたしか「カバキ」というのだったと思います。女子大生グループのうちの一人だけがレイプを免れたのですが、彼が逮捕された時に「なぜ、あの娘だけはレイプしなかったのか?」との質問に対し、不遜(?)にも「俺だって好みはある」と答えたそうです。この答えにはお怒りの意見が多数あったような気がしますが、私は彼の発言自体は別に間違っていないのではと思いました。怒りの対象の論点がちょっとずれているような気がしました。ちなみに傷心(傷身?)の女子大学生グループは解放されたあとに、すぐには帰国せず、旅行の続きをしたと聞いています。なんとたくましい!センチメンタル・ジャーニー?それは感傷ですね。

私は基本的な考え方として、権威主義ではありません。なぜなら権威あるかたが必ずしも正しいとは限らず、10年もすれば間違っていたことに周囲が気づくケースもままあるからです。健全なる批判精神もしくは懐疑主義は必要かと愚考します。


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Posted by 木原 昌彦 at 19:17│Comments(0)
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