2016年04月23日
茹で蛙?

先日、あるかたのfacebookの投稿で、久しぶりにタイトルの言葉を見ました。20年くらい前に初めて知りましたが、懐かしく思いました。意味合いとしては、蛙を熱湯に投げ入れると条件反射的に脱出しますが、徐々に温度を上げていくと変化に気づくのが遅れ、結果的に茹で上がって死んでしまうということです。
生まれてから、死ぬまでに社会環境にそれほど変化がなければ、予測もしやすく計画的にコツコツ努力をするひとが成功する確率も高くなるかと思います。
ここ20年くらいを振り返ると、それ以前ではありえないと思われた現象が多数起こっており、こんなはずではなかったと思われるひとも多いかとも思われます。
しかしながら、人類の過去の歴史を振り返ると、そんなことは日常茶飯事ですね。意外に安定している時期というのは短いものかとも感じます。
もちろん、普遍的なこともあるかもしれません。それは適者生存ということです。国が守ってくれるとは限りません。国というのは所詮、便宜上存在するものですので、条件が変われば存亡は危うくなりますね。
幕末の新選組を美化するケースもありますが、見方によれば、武士に憧れた武士ではないかたが、武士以上に武士らしく生きようともがいただけで、情勢を読めなかった近視眼的な悲しさも漂います。
もっとも、判官贔屓と言うように日本人は敗北者に同情するという文化があるようです。それはそれで美徳とも思われます。
変化が急激な場合、その変化についていけない人たちもいます。社会全体の安定性を保つには、そういったかたへの救済措置も必要です。しかしながらそればかりに注目していると社会全体の競争力が失われ、その社会自体が成り立たなくなることもありうるとは思いますので、バランス感覚が必要です。でも、全てのひとを救おうとするのは、現実的に難しいかとも思われます。
まあ、全員が生き残る必要はもともとないかもしれませんので、自助努力で生き残れるひとが生き残ればいいのかな?なんだかアナーキーな感じもしますが…ノアの箱舟が来てるのかも…?
Posted by 木原 昌彦 at 21:44│Comments(0)